断捨離の話

先日かなりひさしぶりにブログを更新しました。

以前、ブログを続けるための戦略、と題して記事の書き方を自分なりに型を作る、といったことを検討しましたが、その後も自分なりの型を見つけられずにいます。

www.august-green.com

 

下書きはそこそこたまりましたが、一つ一つを完成させるのが面倒くさい。そういう気持ちが書いているうちに強くなります。

 

記事の完成とは、というとなんとなくですが、読んでいて起承転結、理路整然と隙がない文章を書くことなのかな、と思うのですが、そういうことを考えるといちいち心理的な障壁とぶつかるんですよね。公開のボタンを押す時とかを想像すると億劫な気持ちになる。

 

ブログなんてどうせ誰の目に止まるものでもないし、恥は書き捨てとわかっていても、今風のしっかりとしたわかりやすいとか読み手を意識したとか、そういうことも考えられないの?という目に晒されたくなくて、多分プライドが邪魔をしているんだと思います。

 

なんの関連がなくとも、適当に日々書きなぐっていたその時考えていたことを公開してみたり、オチも結論も無いようなものでも平気でアップしていく中で、そういう自分なりの型が出来上がるといいなぁという淡い期待から、今後も適当なスタンスでブログを続けてみようと思います。

 

「〇〇でおすすめのガジェット○選!」とかの方がアクセスもお金も正直稼げたりするけど、はっきり言って書いてて楽しいもんではないし本当にいい内容のものにしようと思ったらかなり大変。そんなに労力を避けないなら中途半端なアウトプットになって、その質に満足できないからストレスが溜まる…

だから元気な時はそういうアクセスを意識した所謂ゴミ記事を量産しつつ、面倒くさい時は今回のような書き殴りのゴミ記事を小出しにするとか。

 

目的は自分なりの型を見つけて人の目に触れてもそれなりの質を担保できるようなスキルを確保するため。

 

 

断捨離の話。

 

気がつくとすぐに家には物が溢れている。

 

休みの日が来るたびに一生懸命に使いきれない調味料やら衣服やら家電を買っては家に眠らせている。大体は使い切れないのだ。そして3割だけ中身が入っているドレッシングは魅力的に感じられない。(ヴィンテージという概念もあるが)

 

買うこと、所有すること自体に快感を覚えるのだろう。例えば食事にも同じように一定の時間が経つと空腹を満たしたいという欲求に見舞われる。

しかし食事には裏返しで排泄が伴い、空っぽになること自体の快感があることも忘れてはいけない。

 

断捨離に伴う快感は排泄と通ずる物があるのではないか。新しいものを体(家·テリトリー)の中に取り入れては、古くなったものをデリートする。

 

食事と異なり知っておかなければいけないのは、断捨離したからといってすぐに新しいモノをまた買い集める必要は特段無いということだ。

何故なら、空腹は時間が経つと更に辛くなるものだが、物欲というものは一度沸き起こった衝動買いの気持ちを我慢すると、次の日には綺麗に忘れていたりするからだ。

 

目の前に美味しそうなものがあったとしても、「今はお腹が苦しいから」とそれを口にすることができない時。そのほうがストレスに感じるんじゃないか。

 

常に空っぽ·少し足りないくらいでいて、いつでもモノを所有することができる状態(経済的な状況も含めて)。そのほうが、幸福度指数も高まるのではないか。